千利休作庭と伝わる「直中庭」を持ち、美しい苔とモミジが訪れる拝観者の目を楽しませる。織田信長、豊臣秀吉など戦国大名ゆかりの寺院、大徳寺黄梅院が公開されます。
毛利元就の三男で豊臣秀吉政権の五大老をも務めた小早川隆景の寄進による、禅宗寺院において現存最古の庫裡(重文)や、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされる釣鐘、また狩野永徳や長谷川等伯と並ぶ桃山時代の絵師、雲谷等顔の障壁画(重文・複製)などが公開されます。11月中旬からは境内の紅葉が美しい。
庫裡は仏教寺院における建造物の一つで、僧侶の居住空間、また台所の機能を持つもの。黄梅院の庫裡は小早川隆景が寄進して建てられたもので、日本に現存する禅宗寺院の庫裡としては最古のものです。
表門から庫裡、唐門に至るまでの庭は苔とモミジに覆われ、新緑と紅葉の季節は特に美しい。表門左手には加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる釣鐘があります。
雲谷等顔は、毛利家の御用絵師として雲谷派を築いた、桃山時代を代表する絵師です。雪舟の水墨画を手本とし、大胆な構図の水墨画を多く残しました。黄梅院のものは現在、複製です。(一部公開)
臨済宗大徳寺派大本山、大徳寺の塔頭寺院。永禄5年(1562)、当時28歳の織田信長が初めて上洛した際に、父・信秀の追善菩提のために小庵「黄梅庵」を建立したことに始まります。本能寺の変によって信長が急逝すると、羽柴(後の豊臣)秀吉がこれを徐々に増築し、天正17年(1589)に「黄梅院」と改めました。
毛利元就の三男・小早川隆景が協力をし、宗家である毛利家の菩提寺ともなったほか、鐘楼に使用されている釣鐘は加藤清正が献上しました。秀吉の軍旗「瓢箪」を象った空池を持つ「直中庭」を千利休が作庭するなど、桃山時代の戦国大名、文化人と非常に縁の深い寺院です。
大徳寺 黄梅院 京都市北区紫野大徳寺町83-1
京都駅から約30分、地下鉄北大路駅から約5分。大徳寺総門(旧大宮通り沿い)南側に有料駐車場有り
Oubai-in was built by Nobunaga Oda(a military commander in the Age of Civil Wars, 1533-1582) for a memorial service for his father, Nobuhide, in 1562.It is one of minor temples with Daitoku-ji sect of Rinzai-shu in Zen Buddhism. It was derived from Touzen-ji, Mt.Hato, Oubai-prefecture in China.At first, it was called “Oubai-an” which means a hermitage. When Nobunaga died in 1582, his vassal, Hideyoshi Toyotomi(1536-1598), ordered to rebuild its main building and Kara-gate. Takakage Kobayakawa who was a building magistrate in the time commanded to build a bell tower, a room for guests and a Kuri(like a kitchen of temple). Then, it was renamed from”Oubai-an”to”Oubai-in”in 1589, when Gyokucyu was second priest in this temple.