池泉式方丈庭園
池泉式方丈庭園
徳川家康に仕えた初代美濃加納藩主、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)によって創建された建仁寺久昌院。 信昌は家康の長女、⻲姫を妻とし、また京都所司代を務めるなど徳川家で重きをなした人物でした。その転機は天正3年(1575)の織⽥信⻑・徳川家康の連合軍が武⽥勝頼の軍を破った⻑篠の戦い。徳川家にとって重要な拠点であった長篠城が武田軍に包囲された際、守将として織田・徳川連合軍が戦場に到着するまで城を守り抜き、自軍の勝利に大きく貢献しました。その功績によって家臣でないにも関わらず織田信長から「信」の一字を与えられ、元々の「貞昌」という名を「信昌」と しました。関ヶ原の戦いにも参戦し、その直後に初代京都所司代に任命されています。元和元年 (1615)に61歳で亡くなると、久昌院に葬られました。本公開では宇喜多⼀蕙(いっけい)筆『⻑篠合戦図』や東⼭を借景とした池泉式⽅丈庭園、「遠州別好ノ席」と⾔われる茶室を 持つ書院「⾼松軒」が特別に公開されます。
奥平信昌が活躍し、織田信長・徳川家康連合軍が武田軍を破った長篠の合戦。作者の宇喜多一蕙は江戸時代末期における大和絵の第一人者でした。また、宇喜多一蕙は豊臣家五大老の一人、宇喜多秀家の七代末裔と言われています。
方丈の南に広がる池泉式庭園。境内はひかえ目ながら11月下旬には紅葉が楽しめる。
方丈の西側に位置する書院「高松軒」は十二畳台目と八畳台目の座敷からなる書院は北隣に三畳台目の茶室「遠州別好ノ席」の小間を有する。奥平家代々の大名墓参に使われたとされる。
臨済宗建仁寺派大本山 建仁寺の塔頭寺院。慶長13年(1608)に初代美濃加納藩主の奥平信昌が開創した奥平家の菩提寺である。奥平信昌は天正3年(1575)の織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った長篠の戦いで活躍し、織田信長の「信」の一字を拝領する。また、家康の長女、亀姫を娶るなど徳川家の中で重要な地位を与えられる。本尊には亀姫が持念仏とした薬師如来像(室町時代作)が祀られている。元和元年(1615)に奥平信昌が61歳で亡くなると、久昌院に葬られた。
池泉式方丈庭園
建仁寺 久昌院 京都市東山区小松町597
京都駅から約20分、京阪「祇園四条駅」から約5分。建仁寺北門の近くに有料駐車場有り ※駐車場は台数に限りがありますのでタクシーもしくは公共交通機関でお越しください。